泉岳寺とは
泉岳寺は曹洞宗の寺院です。
慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田(現在の警視庁の近く)に創立したのですが、
寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失してしまったため、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転しました。以来、浅野家の江戸での菩提寺となりました。
あまり知られていないかもしれませんが、諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
泉岳寺が有名な理由
みなさんご存知ですが、主君の仇討ちを達成した赤穂浪士のお墓があり、四十七士を偲び全国から参拝者が集います。
ここで全体の流れをわかりやすくおさらいします。
元々は吉良上野介と浅野内匠頭のトラブルから始まっています。浅野内匠頭に同情したくなるような冷遇ぶりに浅野が、江戸城の松の廊下で吉良の額等に切りつける刃傷事件を起こしてしまいます。
江戸城の重大な儀式の最中に起きたこともあり、5代将軍綱吉より即座に切腹を命じられて自害します。
それだけでなく、領地没収の憂き目にあい、浅野家再興を目指しますがその夢も潰えてしました。
そこで大石内蔵助を中心とした仇討ちのプロジェクトがスタートし、約1年10か月後の元禄15年12月14日の深夜(午前4時ごろ)、討ち入りが慣行されました。89名の吉良邸護衛との激戦を制し、いよいよ吉良上野介に迫り、額と背中の傷を確認の上、雪道を行進し、吉良の首を携え約10キロ離れた泉岳寺の浅野内匠頭の墓前に供えました。
その後、吉良邸討ち入りを幕府に報告し、幕府の指示に従って全員切腹となりました。
この顛末は当時の江戸市中でも大きな話題となり、歌舞伎でも「仮名手本忠臣蔵」は歌舞伎を代表する演目のひとつです。この物語を題材にした映画、ドラマは枚挙にいとまがありません。
四十七士の戒名について
四十七士の戒名ですが、全員に共通して「刃」と「剱」の文字があります。
大石内蔵助 忠誠院刃空浄剱居士
大石良金 刃上樹剱信士 など
これについて泉岳寺の話では、「中国の仏教書である『碧巌録』に、「氷凌の上を行き剣刃の上を行く」という言葉があり、氷の角や剣刃の上を歩くという、常識では不可能なことを成し遂げたという意味から、当時の住職らが「刃」と「剱」の文字を引用したと言われているとのことです。
切腹して自害したからということではないようです。
ちなみに、この大石良金は大石内蔵助の長男で若干16歳で四十七士となり、父親を運命を共にしています。
忠臣蔵はとにかくおもしろい
NHKの大河ドラマでは『赤穂浪士』『元禄太平記』『峠の群像』『元禄繚乱』で赤穂浪士を題材にしています。
ストーリーにも様々な捉え方や解釈が進み、エンターテイメントとしてもこの上なくおもしろい物語の代表と言えると思います。
私自身もこの再訪をきっかけに新たな興味が沸いてきました。近いうちに吉良屋敷跡地も再訪したいと思いますし、機会があれば歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」も。
みなさんも「泉岳寺」を訪れ、日本人が大好きな歴史の1ページに浸ってみませんか。